2008年 04月 21日
大きな手 |
たとえばベランダのゼラニウムやジャスミンは、
何の手入れもしたことがないというのに、
一度は枯れかけたこともあるというのに、
小さなつぼみをつけて、
早いものはもう咲き始めている。
まいにち目を向ける余裕もなく過ごしていても、
さすがに一斉に桜が咲き始めると、
目を向けざるを得なくなり、
そしてそのはかなさを思うと焦りさえ感じてしまう。
今年の桜をあと何回心から楽しむことができるのだろう・・
絶えることなく幾度も繰り返される営み。
桜のつぼみがぷっくり膨れたころにおじいちゃんは眠り始めた。
春はエネルギーに満ちている。
冬のあいだ灰色に静まり返っていたそこかしこが、
いっせいに色を帯び始める。
雑草といわれている草たちも、
優しい色合いの花をつけている。
散り始めた桜の花びらが鏡のように静まり返った湖面に、
弧を描きながら川を作っている。
まだ満開に近い桜を映した湖面に雨粒が円を作る。
残された花たちはいっそう美しく、はかない。
ハナミズキは何かの象徴のようなかたちのいい誇らしげなつぼみをほころばせて、
散っていく桜の淋しさを払拭する。
絶えず繰り返される力強い大きな流れ。
鳥たちも活発に飛び交い始め、
心地よい囀りが聞こえる。
その間おじいちゃんは眠り続け、
わたしはまいにち朝になると目を覚まし、
仕事に出かける。
おじいちゃんが眠り続ける世界でわたしはいつものように仕事をする。
朝起きて、
家を出て、夜になると眠り、
また目を覚ます。
それはとても不思議なことのように思えた。
けれど思う。
おじいちゃんも、わたしも、
その大きな流れの一部なのだと。
眠り始めてちょうど一ヶ月が経ち、
おじいちゃんはほんとうの眠りに落ちた。
もう二度と覚めることのない眠りに。
悲しむべきことではないのかもしれない。
東京の桜はすっかり散り、
みずみずしい若葉をつけ始めていたけれど、
岡山の山の桜は満開だった。
炎に包まれたあと、
遺された立派な大腿骨。
それをみてわたしは、
おじいちゃんの、
小さな体に似合わないほどの、
大きくてごつごつした、
力強い手を思い出した。
by amatsubu
| 2008-04-21 00:00